●広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。
まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。
被爆者である橋爪文さんが書いた
『少女・14歳の原爆体験記』(高文研)
詩人の感性を持つ少女の目を通して、被爆の実相と、
廃墟に生きた人々の姿が克明に描かれている。
「ABCC」の実態についても触れられている。
「原爆傷害調査委員会」と訳されたアメリカ軍施設「ABCC」
「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。
その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。
このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。」
原爆は通常の爆弾と違って、深刻な
「放射能汚染」を引き起こすのが大きな特徴である。
放射線の影響は、その後長期にわたってさまざまな障害を引き起こした。
体内に取り込まれた放射線が年月を経て何を引き起こすのか、
50年以上経過した現在でもまだ十分に解明されておらず、
被爆者はこれらの後障害で今なお苦しみ続けている。
現在もアメリカは被爆者たちを追跡調査している。
放射線の影響によって、髪の毛がごっそり抜け落ちてしまった姉弟
被爆して顔面に大ヤケドを負った6歳の少女。包帯姿が痛々しい。
後ろにいる母親は左腕と両足をヤケドし歩くことができなかった。
この親子は広島地方専売局の臨時救護所に通い続けた。
当時、彼女たちは一生消えない傷を背負って、
戦後を生きていかねばならなかった。
1993年2月5日 『朝日新聞』
【上の記事の内容】=ネバダ核実験場を管轄している
米エネルギー省ネバダ事務所が発行している刊行物「公表された米核実験」の中に、
広島・長崎への原爆投下が「核実験(テスト)」として記載されていることが、
4日、明らかになった。同事務所は「分類方法に不適切があった」とし、
「次版から書き方を変更することを検討する」としている。 〈後略〉
◆
●トルーマン大統領の原爆に関する「罪」は、これだけでは終わらない。まだ大きな責任がある。
大戦の終結とともに、アメリカは「世界最初の原爆保有国・使用国」として、原子力を厳重に管理して、世界に原爆を拡散させないようにする重大な責任があった。「原子力の国際管理」は地球の未来を占う非常に重要なテーマであった。
第2章でも触れたように、1946年、トルーマン大統領の国連特使を務めたバーナード・バルークは、すべての核技術を国際的な管理下に置くことを提案した。しかし、それが人道主義的な立場からではなく「アメリカの核優位・核独占」という「ソ連への牽制」であることが明らかにされ始めると、この「国際原子力管理協定」の実現は破綻してしまったのである。
また、大戦の終結とともに、「マンハッタン計画」に参加していた科学者たちは、原子力研究を平和時の状態に戻し、「軍管理体制」を解除するよう求めていたが、トルーマン大統領はこうした動きを完全に無視して、原爆の開発を軍の指揮下で積極的に推し進めた。そして、1948年には「サンドストーン計画」という「原爆大量生産計画」をスタートさせたのである。
●そして、1949年にソ連が「原子爆弾」の開発に成功すると、トルーマン大統領は、翌年1950年に「水素爆弾」の開発にすんなりとゴーサインを出してしまった。
1952年に最初の「水素爆弾」の実験が行なわれたが、この時、太平洋の小島「エルゲラブ島」が消滅してしまうほどの威力を見せつけた。
この水爆実験成功によって、ユダヤ人科学者エドワード・テラーの唱え続けていた「超強力爆弾」の理論が妄想でないことが実証されたのである。
「水素爆弾」は広島に投下された「原子爆弾」の
1000倍以上の破壊力を持つ悪魔の兵器である
●1954年3月1日に行なわれた「水爆」実験によって、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23名が被爆してしまうという事件が発生したが、この時の「水爆」の名前は『ブラボー(万歳)』で、テラー博士の作品であった。
恐ろしいことに、日本人は広島・長崎に続いて核の被害にあったのである。
この世界中を震撼させた「ビキニ事件」は、映画「ゴジラ」の製作のきっかけにもなった事件である。(※ アメリカが行なったビキニ環礁の水爆実験でジュラ紀の恐竜が目覚め、身体にたまってしまった放射能を吐くという設定)。
1954年3月1日に行なわれた「水爆」実験によって、
日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23名が被爆してしまった。
日本人は広島・長崎に続いて核の被害にあったのである。
●「水素爆弾」の完成は、アメリカ科学者たちの間に大変な反響を呼び、テラー派と反テラー派とに大分裂させた。
更にこの頃、「マッカーシー旋風(赤狩り)」が荒れ狂っており、原爆開発のリーダー的存在であったオッペンハイマーは「ソ連のスパイ」ではないかと告発され、「政治的理由から水爆の緊急開発計画に反対を唱えた」というテラー博士らの追い打ち証言もあって、かつての英雄オッペンハイマーは「国家反逆」のレッテルを貼られて第一線から追放されてしまったのである。
ジョセフ・マッカーシー上院議員
マッカーシズムといわれる嵐を巻き起こした。
マッカーシズムとは、1948年頃から1950年代半ばの
アメリカで起きた激しい反共産主義運動のことである。
米誌『タイム』の表紙を飾った
オッペンハイマーとテラー博士
●しかしこの事件は多くの人々に"不正"なものと映ったため、この「オッペンハイマー事件」以後、一般にオッペンハイマーは「科学への殉教者」、テラー博士は彼を落としめた「迫害者」と見なされ、かつての親友たちもテラー博士を敬遠するようになったという。
結局、テラー博士もまたアメリカ科学アカデミーの主流から隔絶されてしまったのである。
原爆・水爆・SDIの父である
ユダヤ人科学者エドワード・テラー
水爆の開発をめぐって、水爆反対派の
オッペンハイマーと激しく対立した
●しかし、科学者の仲間から拒絶されたテラー博士は積極的に資本家や産業界の重鎮、大物政治家との親交を深め、軍部にも急接近していった。ネルソン・ロックフェラーとはすぐに親友になった。時の副大統領のリチャード・ニクソンは、テラー博士に助言を求めた。後にニクソンは大統領になったとき、テラー博士の研究を推した。
1960年代、テラー博士の招待に応えたロナルド・レーガンは、テラー博士の研究所を訪れた最初のカリフォルニア州知事となった。後に大統領となったレーガンは、強力な軍拡路線を敷く中で、テラー博士を最大限に擁護した。レーガンは、テラー博士のアイデアである「SDI計画」をブチ上げたことで知られる(1983年3月23日)。
※ レーガン大統領はアメリカ科学界最高峰の栄誉とされる「アメリカ国家科学賞」をテラー博士に贈った(前述)。
(左)レーガン大統領と握手するテラー博士 (1983年)
(右)テラー博士の考案したSDI兵器の1つ「核X線レーザー衛星」。
小型水爆の周囲に数十本のロッドを配して、自らの核爆発によって
各ロッドから「核X線レーザー」の一撃を放出させる兵器である。
●さて、話をトルーマン大統領に戻そう。
冷戦時代の外交官で第一外務次官を務めたコルニエンコは、1995年に『冷戦──冷戦参加者の証言』を出版し、冷戦発生の責任はその全てとはいわないが、そのほとんどの部分は西側列強にあり、冷戦を開始したのはアメリカ、トルーマン大統領であったと主張している。彼は次のように語っている。
「フランクリン・ルーズベルト大統領は1945年4月12日に亡くなるまでソ連との協力を望んでいたが、同大統領の亡きあと大統領となったトルーマンはただちにポーランド問題で冷戦の『第一発』を放った。また、トルーマンが冷戦の道を歩むことを最終的に決めたのは同年9月21日、彼がスチムソン陸軍長官の原子爆弾の管理と使用制限についてソ連と協定を結ぶように主張した提案を拒否した日であり、冷戦を公式に宣言したのは1946年3月5日、チャーチルがアメリカ・ミズーリ州フルトンで有名な『鉄のカーテン』演説をしたときに同席した日である。」
◆
●このように、トルーマン大統領は、原爆の管理と使用制限についてソ連と協定を結ぶのを拒否し、無秩序な核開発計画を進めたのである。
結局、アメリカとソ連は、トルーマン政権以降、熾烈な核軍拡競争に明け暮れ、20世紀の末までに米ソ両国は合わせて4万発以上の原爆・水爆を製造し、1700回以上の原爆・水爆実験を実施し、各地に死の灰を降らせた。
また両国各地に点在する巨大な核施設の爆発事故・放射能漏れ、原発事故、さらには老朽化した原潜・ウラン鉱山なども住民に深刻な放射線被害を引き起こし、環境に多大な汚染をもたらしてきた。
全く狂気の沙汰としかいいようがない。
核実験の回数 (核爆発をともなう実験)
●トルーマン大統領の「罪」は、原爆の対日投下と、戦後の無秩序な核開発だけにとどまらない。
彼は、1947年の国連による「パレスチナ分割案」を強力に後押しし、国連加盟諸国へ脅しの根回しをして、イスラエル建国を実現させた元凶でもあるのだ。
イスラエルの国旗
●中東を専門分野とするイギリス人の国際評論家、デイヴィッド・ギルモアは、豊富な当局側資料を駆使した著書『パレスチナ人の歴史──奪われし民の告発』の中で、この経過を次のように描きだしている。
「パレスチナの運命を決定したのは、国連全体ではなく、国連の一メンバーにすぎないアメリカだった。パレスチナ分割とユダヤ人国家創設に賛成するアメリカは、国連総会に分割案を採択させようと躍起になった。分割案が採択に必要な3分の1の多数票を獲得できるかどうかあやしくなると、アメリカは奥の手を発揮し、分割反対にまわっていたハイティ、リベリア、フィリピン、中国(国府)、エチオピア、ギリシアに猛烈な政治的、経済的な圧力をかけた。ギリシアを除いたこれらの国は、方針変更を"説得"された。フィリピン代表にいたっては、熱烈な分割反対の演説をした直後に、本国政府から分割の賛成投票の訓令を受けるという、茶番劇を演じさせられてしまった。」
◆
●なお、ここで注意してほしいのは、トルーマン大統領は最初からシオニズムの支持者ではなかったという点だ。彼は最初は、アラブ諸国、とりわけアメリカが石油利権を持つサウジアラビアとの関係を重視し、パレスチナでのユダヤ国家建設に反対する意向を表明していたのである。これに対し、当時の在米ユダヤ人社会は強く反発し、「1948年の大統領選挙では、トルーマンはユダヤ人票を失うだろう」と警告したのである。
大きな票田を持つ都市に集中するユダヤ人の票は、当時、戦局不利が伝えられていたトルーマンにとって勝敗を左右する重要な要素だった。このままでは共和党候補に敗北する、という危機感を抱いたトルーマンは、前言を翻し、国連決議案の支持に回った。これによって、翌年の大統領選挙では75%のユダヤ票を獲得し、きわどい差で勝利したのである。
トルーマン大統領は、ユダヤ票欲しさに
熱烈なシオニズム支持者になり、
イスラエル建国を実現させた
●マスコミの連中がトルーマン大統領に聞いた。
「なんであなたはそんなにユダヤの肩ばかり持つんですか?」
トルーマン大統領はこともなげにこう言った。
「だって君、アラブの肩を持ったって、票にはならんだろうが」
このように、トルーマン大統領はユダヤ票欲しさに、イスラエル建国を支持するパレスチナ分割決議を推進したのである。
原爆投下といい、戦後の無秩序な核開発といい、イスラエル建国といい、彼は、自分の下した決定が、どんな深刻な悲劇を生み出すのか、あまり深く考える男ではなかったようだ。(ちなみに、トルーマンは父方がユダヤ系である)。
シオニズムが抱える深刻な問題については、当館6Fの
シオニズムのページで具体的に考察しているので、
そちらをご覧下さい。本当に深刻な問題です。
●参考までに、『新・文化産業論』や『失敗の教訓』など数多くのベストセラーを世に出している日下公人氏(東京財団会長)は、
「トルーマンのコンプレックス」について次のように述べている。
「1995年に刊行された『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』(ロナルド・タカキ著/草思社)という本の中に、驚くべきことが書いてある。
トルーマンは、子供の頃からひ弱い坊やと言われ、ルーズベルトが急死した後を継いで大統領になった時は頼りないと言われた。本人も当初は自信が持てないと日記に書いている。だから、男らしいところを見せようと思って努力しているところへ原爆完成の報告がきたので、早速、原爆投下を決定したのだと書いてある。
それ以前にも、この話は聞いたことがあった。その時は『ウソだろう』と思ったが、還暦を越した今では、その気持ちが分かる。そういうことはあるだろうと思う。歴史は、こうした個人の性格によっても左右されるものらしい。」
『アメリカはなぜ日本に
原爆を投下したのか』
ロナルド・タカキ著(草思社)
この本は、トルーマン大統領の性格と
彼の置かれた立場を分析することによって、
彼が原爆投下の決定を下すに至る経緯を
初めて明らかにした衝撃の書である。
興味のある方は一読して下さい。
■■■第5章:演出された東西の「冷戦」──原子力利権の実態
●1992年3月10日に朝日新聞は、「ソ連原爆1号はアメリカのコピーだった」として、次のような記事を載せた。
「1949年8月に初めて実験に成功したソ連の原爆は、アメリカの原爆製造に参加したドイツの亡命物理学者クラウス・フックスからのスパイ情報をもとに、アメリカ製原爆の構造をほぼ真似たものだったことを、ソ連の原水爆の設計責任者を長年務め『ソ連の原爆の父』とも呼ばれるユーリー・ハリトン博士(88)が、朝日新聞とのインタビューで明らかにした。
西側でも、フックス情報がソ連原爆開発の力になったと推定されてはいたが、当事者がこれを認めたのは初めて。また、ソ連初の原子炉は、占領したドイツから押収したウランを燃料としたなど、これまで秘密にされてきたソ連の核兵器開発の様子を詳しく語った。」
クラウス・フックス(ユダヤ人)
ドイツ共産党に入党していたが、ナチスの
弾圧を逃れてイギリスに亡命。物理学で頭角を現し、
1943年にアメリカに渡り、「マンハッタン計画」に参加。
その間、原爆情報を旧ソ連政府に流していた。スパイ容疑で
尋問され、1950年に自白。懲役14年の判決を受けたが、
1959年に釈放される。その後、旧東ドイツの原子力
研究所副所長を務め、1988年1月に死亡した。
(左)1992年3月10日 『朝日新聞』
(右)ソ連初の原爆 「Joe-1」。だが、その実態はアメリカの
原爆情報を入手して作られた「長崎型原爆」のコピーだった。
●驚くべきことに、ソ連の原爆開発には、「マンハッタン計画」を主導したオッペンハイマー博士も関与していたという。
1994年4月18日に、中日新聞は次のような記事を載せた。
「第二次世界大戦中にアメリカが原爆を開発した『マンハッタン計画』の責任者で『原爆の父』といわれるロバート・オッペンハイマー博士らが、核戦争回避のため力のバランスをつくり上げようと自らの原爆製造情報を当時のソ連スパイに秘密裏に提供していた事実が明らかになった。
18日発売の米誌『タイム』(4月25日号)が元ソ連の大物スパイ、パベル・スドプラトフ氏(87)の回顧録の抜粋で紹介したもので、戦後の『冷たい戦争』も『核抑止力による平和』も、実はこれら科学者たちが"演出"したものだったことになる。
SAVE THE 東北の酒!!今宵も一杯ひっかけたいぃぃぃぃ!!