『アマルコルド』前説〜人はなんによって生くるか
1973年イタリア=フランス映画(日本公開1974年)
製作 フランコ・クリスタルディ
監督 フェデリコ・フェリーニ
脚本 フェデリコ・フェリーニ/トニーノ・グエッラ
撮影 ジュゼッペ・ロトゥンノ
美術 ダニーロ・ドナーティ
音楽 ニーノ・ロータ
出演 プペラ・マッジョ/マガリ・ノエル/アルマンド・ブランチャ/チッチョ・イングラッシア/ナンデーノ・オルフェイ
こんにちは、富山商船高専の金川です。
今日の映画は『フェリーニのアマルコルド』です。監督の名前がそのまま使われているくらい、作家性の高い映画だといえます。そして、何よりも僕の大好きな映画です。
フェデリコ・フェリーニ監督は「私の映画はすべて私の人生のある季節のシルエットである」と語っていますが、この作品は監督の小さな頃の想い出です。フェリーニの故郷は北イタリアで海岸沿いにある街・リミニでタイトルになっている「エル・アマルコルド」とは「私は覚えている」という意味なのですが、方言なのすでに死語となっているといいます。
作家でも映画監督でも自分が大きな仕事をし終えた時に、自分の原点に戻りたがります。そしてルーツを求めて回顧するのですが、映画の中でもこうした映画はいっぱいあります。今年の9月7日に前説をした『ニュー・シネマ・パラダイス』などはその典型的な映画ですし、日本でいえば、『祭の準備』なんていうのがあります。作家の回顧を映画化した作品まで探すと本当に映画の多くが郷愁ではないかと思えてきます。家族を大切にするイタリア映画の多くは郷愁に満ちています。『エボリ』という映画も是非みていただきたいし、『木靴の樹』も好きです。アメリカ映画でも『ラスト・ショー』がありますし、『スタンド・バイ・ミー』も郷愁を誘います。
郷愁に満ちた映画は古き良き時代というそれだけで、心を洗ってくれます。
どのようにハワイに影響を与える産業の気候はない
レックス号
最初にマニーネという、春を告げるポプラの綿毛が空から降ってくる"春一番"のシーンから始まります。「レ・マニーネ、レ・マニーネ」とはしゃいだ声があちらこちらから聞こえて来ます。日本だったら桜の乱舞でしょうか?そして、翌年のマニーネの乱舞で終わります。このマニーネも方言なので、タイトル同様、普通のイタリア人には意味が分からないそうですが、これが逆にフェリーニが心から故郷を愛してる証拠になっているようです。
このマニーネの乱舞に挟まれた1年間はフェリーニにとって、生涯忘れられないもので、春を迎える祭り、小さな港町にやってくるイタリアの豪華定期船レックス号、ムッソリーニのファシズム旋風、精神を病んだおじさんが引き起こす騒動など、激動の時代を描いています。ムッソリーニも同じ地方の生まれなので、何となく政治好きで芝居好きの傾向が分かってくるような気がします。しかし、ファシズムに抵抗するとか、何かを告発するような映画ではありません。
冬が来て、どこから逃げだして来たのか一匹の孔雀が雪の上に舞い降りると、まばゆいばかり見事なその羽根を開げてみせます。でも、イタリアでは孔雀は不幸の前兆であると信じられているのですが、主人公のチッタ少年にとっても忘れられない1年になるのです。
この映画の中でも一番印象的なシーンは秋です。チッタの一家は、精神病院に入れられていたおじさんを迎えに行くことになります。医者は大分よくなったというし、最初は何ともないのですが、そのうち、前を開けずに放尿したり、大きな木に登って大きな声とで叫びます。
なんて叫ぶかは見てのお楽しみですが、このシーンに人間存在の悲しみがいっぱい詰まっているように思えます。【映画を見ない人のための正解】
不思議な小人のシスターが木に登っていき、おまじないのような言葉を口にしただけで、おじさんがあっけなく降りてきて、病院に戻されることになるのですが、チッタはそれでも仕方ないと思います。病院を出たところでキ印のおじさんの望みは叶うはずもないからです。
作家の山本周五郎をご存じでしょうか?『どですかでん』という名前が出てくれば、映画がお好きだろうし、『樅ノ木は残った』とか『柳橋物語』とか『さぶ』とかが出てくれば、小説か舞台のファンだと思います。黒澤明監督も山本周五郎が大好きでした。『赤ひげ』は『赤ひげ診療譚』、『どですかでん』というのは『季節のない街』を映画化したものですし、『椿三十郎』は『用心棒』のキャラクターを周五郎の『日日平安』に使ったものでした【後に黒澤の脚本の『雨あがる』も別の監督で映画化】。僕も心が比較的落ち着いていた時期には周五郎の作品をいっぱい読みました。人生の機微というものを実に丁寧に、しかも感動的に描いた作品が多いと思います。
彼女は行ってどの程度まで
中でも好きなのは『青べか物語』です。森繁久弥の出た映画も素晴らしいものですが、原作も実にいいものです。舞台がどこかご存じだったら、間違いなく山本周五郎ファンだと思います。まして、この「青べか」というのが何であるかご存じだったら、絶対に読んでおいでだと思います。『青べか物語』の舞台は浦粕(うらかす)となっていますが、今の浦安です。あのディズニーランドのある街です。浦安はちょっと前まで、小さな漁村だったのです。そこへ周五郎本人と思われる作家が住み着くことになって、街の多くの人との出会いを淡々と描いています。「青べか」というのは馬ではなくて、作者が芳爺(よしじい)さんから売りつけられた一人乗りの平底舟のことです。
短編集のようになっているのですが、この中に「人はなんによって生くるか」というのがあります。ある日、先生はいつものように釣りをしていました。そこへ「五十年配で、綿入の布子(ぬのこ)に綿入の半纏を重ね」た一人の男がやってきます。先生のすぐ脇で釣りを始めます。他に誰もいないところに変な男がやってきたので、先生は場所を変えようとします。その時、男はいきなり、先生に「人はなんによって生くるか」と問いかけてくるのです。先生はびっくりして「なんですか」と聞き返します。
すると、「垢じみた毛糸の襟巻を頭から頸(くび)へぐるぐる巻きつけ」た男は、黙って、右手の拳を、ぐいと突き出して、これを見ろとばかり、見せます。先生は不意をつかれて、うろたえ、曖昧に微笑むのですが、男は「無表情のまま」黙って自分の釣りに戻ります。事件というのはこれだけです【解説を聞いていた人は年配が多くて意味がよくわかったと思うが、このジェスチャーはイチジクといって「オマ×コ」を表します-----念のため】。
その後、知り合いから男の真相を聞かされます。その男は7年前に妻子を置いて出稼ぎに出かけていたのですが、その留守中に妻と4人の子どもが赤痢か何かで急死してしまうのです。まったく知らないで家に戻ってきた男は、その始末を聞いて、「いっぺんに気が抜けたようになって、半月ばかりぼんやりして」いたといいます。「彼はたいへんな子煩悩」だったことも分かります。
作家は、というか山本周五郎は彼の悲しみの深淵に心を痛めます。「人はなんによって生くるか」という言葉は「まなんで覚えたのではない」、その文句は「妻と四人の子を一度に失った男の言葉なのだ」と思い知ることになります。
それだけです。『アマルコルド』のちょっと気が違ったおじさんを見ていて、同じような思いになります。主人公のチッタは何かわりきれないものを感じたはずです。人間の根本的な欲望は誰だって変わりはしないはずで、おじさんの心からの叫びというのは全人類に響くかのようです。
"何を市内で行うには好きですか"
僕の住んでいる町は5,60軒の小さな街ですが、その中でも色々な事件がありました。関係者がいないのでいいますが、弟がお嫁さんと無理心中をして弟が生き残る、なんて事件もありましたし、色恋沙汰で自殺した人もいます。いつか街を離れた時には書けると思いますが、今はとても書けません。ちょっと手にアマルコルドという感じです。
悩みのない人生、トラブルのない家庭なんかありません。それぞれが表面は明るく生きているのかもしれません。
映画とどんどん離れますが、民俗学者の柳田国男に『山の人生』というのがあります。『遠野物語』に次いでよく読まれている本だと思いますが、この冒頭に出てくるのが新四郎事件というものです。短いのでそのまま読みます。
今では記憶して居る者が、私以外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で【石+斤】(き)り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てて居た。其子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ下りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻って来て、飢えきって居る小さい者の顔を見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であったと謂う。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、頻りに何かして居るので、傍に行ってみたら、一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いて居た。阿爺(おとう)、でわしたちを殺して呉れと謂ったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらく� ��として、前後の考も無く二人の首を打落としてしまった。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕えられて牢に入れられた。
此親爺がもう六十近くになってから、特赦を受けて世中へ出て来たのである。そうして其からどうなったか、すぐに又分らなくなってしまった。私は仔細あって只一度、此一件書類を読んで見たことがあるが、今は既にあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持で蝕ばみ朽ちつつあるであろう。
これは明治37年、実際に起こった事件で、法制局の官僚だった当時、柳田國男自身が扱った事件に題材を取っています。現場の「新四郎屋敷」は大和町古道山中にあり、今も石塚などが残っているといいます。
僕の小さな街を見ているだけでも、色々な事件があり、40年近く生きているうちに様々な出会いや別れがありました。周りの風景もすっかり変わりました。もちろん、人情も変わったように思えます。
ときどき、豊かさって何だろうと思います。今の日本人は経済ばかりの話をします。「人はなんのために生くるか」、様々な答えがあるはずですが、そんなことを考える人は圧倒的に少ないと思います。
この映画を郷愁だけでごらんになるのもいいですが、僕たちが戦後失ったもの、故郷と故郷の人々、そして人生というものをもう一度考えてみましょう。
【91年11月28日 富山市民大学祭・富山市民プラザ】
※柳田は旧友の田山花袋にこの話をしたという。花袋は「話が奇抜すぎ深刻だから、小説にできない」と断った。作家の宮本輝は文章修行で「山の人生」を、丹念に写したという。
※その後、『山の人生』は人形浄瑠璃文楽「母情落日斧ははなさけらくじつのおの」になった。父子三人が貧しく山で暮らしていたが、父のけがで娘が奉公先へ。娘は一生懸命働くが、盗みのぬれぎぬで泣く泣く家へたどり着き、「母のところへ生かせて」と父に懇願。弟も「母に会いたい」とせがみ、父がおのを二人の首に−というストーリーになった。
※『フェリーニ・オン・フェリーニ』(キネマ旬報社)というインタビューで傑作だという人と同じことの繰り返しだという人に分かれるという質問にフェリーニは「傑作ではないね。ほんのちょっとした、小惑星みたいな映画だ」と答えている。
※『青べか物語』の終わり間近で主人公の「私」がスウェーデンの劇作家ストリンドベリの著述にある一節「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」をつぶやく。
※『ギルバート・グレイプ』という映画では主人公のジョニー・デップの弟を、まだ売れる前のデカプリオが演じていてまさに典型的な自閉症児だ。印象的なシーンは、デカプリオが高い鉄塔に登ってしまって下りてこず、町中大騒ぎとなる場面である。高いところにのぼりたがる精神遅滞児はおおむね自閉症であるというのは、専門家から見ても事実なのだそうだ。ドナ・ウイリアムズ『自閉症だったわたしへ』(新潮文庫)の中にも、小学校に入学したばかりの彼女が、校庭の一番高い木に登って下りれなくなる場面が印象的に語られている。
※僕が好きなジョークは次の通り。
ある病院である男が旗竿によじ登っててっぺんに何か紙切れを取り付けて降りてきたことがありました。次から次へと登っては納得して降りてくるので、お医者さんは看護士に何があるのか見てきてくれ、と言いました。すると、登っていった看護士が答えて言いました。「旗竿の終点って書いてあります」。
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