不満と改革
「偉大な民主主義は、進歩的でなければ、偉大でも民主主義でもない。」
1913年3月3日、ワシントンDCのペンシルベニア・アベニューを行進する女性参政権支持者たち (Library of Congress) |
農民の窮状とポピュリズムの台頭
米国の農民は、大きな前進にもかかわらず、19世紀末に何度も困難な状況に直面した。機械の改良によって1ヘクタール当たりの収穫高は大きく上昇した。19世紀後半を通じて、鉄道の発展と、平原地帯のインディアンの漸進的な強制移住によって、西部に新たな入植地域が開け、耕作面積は急速に拡大された。カナダ、アルゼンチン、オーストラリアなどでも同様の農地拡大が進行していたため、米国の農産物の多くが輸出されていた国際市場でも状況が悪化した。世界中で大量の供給が農産物の価格を押し下げていた。
中西部の農民は、農産物を市場へ輸送するための鉄道輸送費が高すぎると考え、不満を高めていた。彼らは、大企業に対する補助制度である保護関税が、彼らの使う農機具の価格をますます高くしている、と考えた。市場価格の低下と費用の上昇に圧迫された農民たちは、債務負担の増加と、彼らの抵当を抑えている銀行に対する反感を強めた。天候までが非協力的であった。1880年代後半の干ばつは、大平原地帯西部に壊滅的な打撃を与え、何千人もの入植者が破産を余儀なくされた。
南部では、奴隷制の廃止が大きな変化をもたらした。農地の多くは小作人によって耕されていた。彼らは、借地代および種子や必需品の代金として、収穫の半分を地主に納めていた。南部のアフリカ系米国人農民の80%、そして白人農民の40%が、こうした厳しい体制の下で暮らしていたと推定されている。小作人の大半は、債務の悪循環にはまり、そこから脱出する可能性としては、作付を増やすしかなかった。そのため綿花とタバコが過剰に生産され、その結果、価格が低下し、土壌がさらに疲弊した。
農業における全般的な諸問題に取り組むための最初の組織的な活動は、「Patrons of Husbandry(農業の支援者)」という農民団体によるものであった。この活動は、「グレンジ運動」として知られている。グレンジは、1867年に米国農務省の職員によって設立され、当初は、ほとんどの農家が直面していた孤立的な状況に対応するための社会活動に重点を置いていた。グレンジは、女性の参加を積極的に奨励した。1873年の恐慌をきっかけにグレンジは拡大し、間もなく2万の支部と150万人の会員を持つに至った。
グレンジは、独自の流通機構、店舗、加工施設、工場、および協同組合を設立したが、そのほとんどが最終的には失敗した。グレンジ運動は政治的にも多少の成功を収め、1870年代には、いくつかの州で、鉄道料金と倉庫料を制限する「グレンジ法」が可決された。
1880年までには、グレンジは衰退し、代わりに農民同盟が出現していた。農民同盟は、多くの面でグレンジと似ていたが、グレンジより公然と政治性を表に出していた。当初は自立した州組織であった農民同盟は、1890年までには、ニューヨーク州からカリフォルニア州まで全米で150万人のメンバーを擁していた。農民同盟に匹敵するアフリカ系米国人の団体である黒人農民全国同盟には、100万人以上のメンバーがいた。これらの同盟は、北部と南部の2大ブロックに連合し、「米国の農民を、階級的立法と資本の集中による浸食から守るために、団結させる」ことを目指す詳細な経済プログラムを促進した。
1890年までには、農民の不満は、長年にわたる困難と、マッキンリー関税への反感によって、かつてないレベルに達していた。農民同盟は、彼らに同情的な南部の民主党員や西部の小規模な第3党の協力を得て、政治力を高める活動を推進した。こうして第3の政党である人民党(ポピュリスト党)が誕生した。大平原と綿花の産地に巻き起こったポピュリスト熱は、それまでの米国の政治には見られないものであった。1890 年の選挙によって、南部と西部の12州でこの新しい政党が権力を得た。そして連邦議会に大勢のポピュリスト党議員が誕生した。
初めてのポピュリスト党大会は1892年に開催された。農業団体、労働組合、および改革組織の代表が、ネブラスカ州オマハに集まり、産業・金融トラストによって腐敗し切っていると彼らが考える米国の政治制度を打倒することを決議した。彼らの政治要綱には次のように述べられていた。
われわれは、国家が道徳的、政治的、および物質的な破滅に瀕している中で会合を開いている。腐敗が投票所、州議会、連邦議会を支配し、裁判所にまで影響を及ぼしている。・・・政府の不正を生むのと同じ多産な胎内から、われわれは、放浪者と百万長者という2つの巨大な階級を生み出している。
ポピュリスト党の政治要綱の実用的な部分では、鉄道の国営化、低関税、政府所有の倉庫に保管される腐敗しない作物によって保証される融資、そして最も議論を呼ぶ提案として、金1オンスに対して銀16オンスという「従来の」比率で銀貨を無制限に鋳造し、財務省が購入することによる通貨インフレーションが要求された。
ポピュリスト党は、西部と南部で目覚ましい活躍をし、同党の大統領候補は100万以上の票を集めた。しかし、間もなく通貨の問題がその他すべての課題の影を薄くしてしまった。農民の代表は、彼らの問題の原因は通貨の不足にあると考え、通貨の量を増やせば、間接的に農産物の価格が引き上げられ、産業労働者の賃金が上がり、膨張した通貨によって債務の支払いが可能になる、と主張した。一方、保守派グループや金融階級は、16対1という価格比率は、銀の市場価格の2倍近くである、と応じた。無制限の購入により、財務省の保有する金がほぼなくなり、ドルの価値が急落し、労働階級と中流階級の購買力が破壊される。金本位制だけが安定を提供する、と彼らは主張した。
1893年の金融恐慌は、この論争の緊張を高めた。南部と中西部で銀行の倒産が続き、失業率が急上昇し、作物価格が大幅に下落した。この危機と、グローバー・クリーブランド大統領が金本位制を擁護したことによって、民主党内の意見が真っ二つに分かれた。1896年の大統領選を前にして、銀本位制を支持する民主党員は、ポピュリスト党に移った。
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